昨日の國府祭(こうのまち)の様子をお知らせいたします。
当社では、國府祭のご奉仕は、三ノ宮(木津根橋含む)~栗原(くりばら)~神戸(ごうど)の順であたっていて、今年は栗原地区が年番でした。
早朝6時前、先ず総代さんたちが集まって来ました。羽織袴(はおりはかま)に着替えた後、元宮へのお供えを上げて、自治会や榊会(総代OB)とともに、神輿車や運搬車に注連縄(しめなわ)を張り、祭具などの荷積みを完了。その後、青年会や行列奉仕者が次々に集まりました。
お清めのお祓い、玉串拝礼、そして内清浄(ないしょうじょう)となる立ちお神酒(みき)で乾杯後、神輿のお立ちとなりました。
昔は八十八ヶ村の村渡しで大磯まで神輿を担いでいったというから、相当な時間と費用を要したおまつりで、天下祭りの異名をもつほど、国内(相模国)最大の催しものだったわけです。
現在は車を利用しますが、往事を知る古老たちの話はとても楽しく、村のまとまりやエピソードなど、話題の尽きないおまつりでもあります。
金目観音(光明寺)で着御祭(ちゃくぎょさい)。ここは板東33ヶ所霊場の第7番目、天台宗の古刹(こさつ)です。
住職を始め、金目敬神講の皆さまのおもてなしでくつろいだ後、行列は御立ち。
恒例により、担ぎ手は金目川の清き流れで身を清めました。
一路、大磯・神揃山(かみそろいやま)へ。神集山(かみつどいやま)ともいわれますが、この入口で在庁・大磯のお迎えがあり、三宮は険しい山道を上がって行きます。
途中、2ヶ所の化粧塚(けしょうづか)があり、ここで神輿の装いや衣服の乱れ等を整えます。神社を出た所にも化粧塚がありますが、昔は装束を旅装に着替えたようです。
神揃山祭場へ到着後、一宮から順に五社(寒川神社・川勾神社・比々多神社・前鳥神社・平塚八幡宮)で着御祭(ちゃくぎょさい)を執り行います。
六社の合同祭典なので、決められた時間で動くことがとても大切です。
各社の式が終わるや否や、総代の合図で栗原祭保存会による粽(ちまき)行事が始まりました。
4月22日の大祭同様、俵を放り上げ、中に詰まった粽を四方八方の参拝者に散り撒きました。(故に「ちまき」)
国土安泰・五穀豊穣の大願が込められた御霊(みたま)分けの吉例に倣(なら)って行われます。
神職が各社を順にお参りする「五社列拝」(ごしゃれっぱい)の後、正午に古式「座問答」(ざもんどう)が行われます。
これは、相武(さがむ)と磯長(しなが)の両国が合併して相模(さがみ)となった時、当時それぞれの一宮だった寒川神社と川勾神社の一宮争いを儀式化したものです。
両社が神座(しんざ)になぞらえた虎の皮を上位(上座)に進めること三度、どちらも譲らぬ中で、当社宮司が進み出て、「いずれ明年まで」と仲裁に入って翌年に持ち越される、円満解決の神物語です。
裃姿(かみしもすがた)の五社の迎神使(げいしんし)が、総社・六所神社へ神さまを迎えに出掛けます。
その後、五社同時に発輿祭(はつよさい)という御立ちの式を行い、一宮から順に神揃山を後にします。
大矢場(おおやば;逢親場とも)祭場(馬場公園)では、六所神社が五社を出迎えます。
大矢場では、五社献饌(ごしゃけんせん)、神納対面(しんのうたいめん)、国司代奉幣(こくしだいほうべい)、神裁許の儀(しんさいきょのぎ)など、一連の神事を執り行い、一年に一度の逢瀬(おうせ)を楽しみます。
昔は、地方長官である国司がその国内安泰を図るため、有力各社に幣帛(へいはく)を奉って祈るもので、律令制度の一端であり、まさしく祭政一致そのものです。
現在では、大磯町長が平安装束を身にまとい、国司代(こくしだい)としてお仕えしています。
帰路、伊勢原市観光協会、伊勢原市商工会、伊勢原市商店会連合会、大神宮通り商店会のお出迎えにより行在所(あんざいしょ)で休み、諸業の安全と発展を祈りました。
午後7時、満月がぽっかりと浮かび上がる中、神さまにご本殿にお還りいただきました。
暦の上では立夏(りっか)となりましたが、初夏の陽気の中、無事に賑やかに、1300年の歴史の1頁が綴られました。
と同時に、目に見えぬ神さまの神威(しんい)により、氏子中が一つとなった楽しいおまつりでした。