65年前の今日(1945年・昭和20年5月29日)、午前9時15分から10時半頃、米軍のB29爆撃機約500機、P51戦闘機約100機の大編隊が神奈川県・横浜の地に襲来し、上空から200,000個以上の焼夷弾(しょういだん)を投下しました。
6月5日、当時の県知事が内務大臣に報告した文章によると、死者は3,650人、負傷者は10,000人に及んだといわれ、当時の人口で被害率は46%に上るそうです。その他、川崎、平塚、小田原、藤沢、横須賀など、県内の空襲による死者は6,000とも10,000人ともいわれています。
(財)神奈川県遺族会の調べ(平成の調査)によると、県内の戦没者慰霊碑等は452基(伊勢原市27基)を数えます。県下では、各所において英霊に対する慰霊祭が今でも丁重に行われていますが、一般戦災死没者の慰霊行事は行われていません。
戦後60年にあたる平成17年5月29日、神奈川県神道青年会により、初めて一般戦災死没者慰霊祭が執り行われました。(於:関内ホール・約700名参列)
県戦没者慰霊堂(横浜市港南区最戸)
その折につくられた霊璽簿(れいじぼ)を納め、恒久的に御霊(みたま)をなごめる為に、本日、神奈川県慰霊堂に於いて合祀慰霊祭が執り行われました。
県慰霊堂
靖國神社を始め、全国には英霊をお祀りする護国神社が鎮座いたしますが、神奈川県にはありません。(横浜・三ツ沢の地に建設工事中、空襲により焼失)
合祀慰霊祭の様子(献饌 けんせん)
しかしながら、神道・仏教・天理教・キリスト教などにより、合同での慰霊行事が厳粛に執り行われています。(慰霊堂大祭・月次祭など)
青年会長による玉串拝礼
本日の慰霊祭には、国会議員・県会議員・市議会議員の皆さんも多く参列されました。
蹲(つくば)いの蓋(ふた)を奉納
式典後に、青年会から手水鉢(てみずばち)の蓋が奉納されました。
合祀に際しては、神奈川県や遺族会など多方面との協議を重ねたようです。今日の日を迎えられたこと、そして何より戦災にあった多くの御霊を慰めることが無事叶い、青年会の面々は満足げでした。
参列した議員さんからは、「戦争を知らない若者たちが、こうして先人を思い、行動をおこすことは何よりも尊いこと。」と賛辞を送っていました。
清らかな気持ちいっぱいで伊勢原に戻りました。