13日(土)・14日(日)は第45回伊勢原観光道灌まつりが開催されましたが、天気にも恵まれ市内外から多くの人たちが訪れた様子です。
さて、13日は禰宜がPTAのお役目で「第8回いせはら独楽小学校対抗選手権大会」に出掛けました。
伝統玩具である大山独楽による寿命と的投げの個人・団体戦の競技ですが、比々多小学校が「的独楽」の部で、見事3度目の優勝を果たすことが出来ました。
また、14日は第38回商工まつりで、神輿の渡御が行われ、例年通りお祓いに出掛けました。
正祭(しょうさい)の祭典を修めて間もなく、神社西側の招魂社において、地区戦歿者慰霊祭を執り行いました。
招魂社には、日清・日露戦争をはじめ先の大戦に至るまで、尊き命を落とされた地域の先人182柱の名前が石碑に刻まれています。
沖原光孚(おきはらこうふ)陸軍中将(明治時代の軍人)の筆による「忠勇貽範」(ちゅうゆういはん)と記された石碑の前に祭壇を設け、青葉常磐木(あおばときわぎ)に御幣(ごへい)を垂らし、英霊を招魂いたしました。
傷痍軍人会や軍恩会など、90歳以上の人たちも元気に参列、遺族会、県議、市議など、地区自治会連合会主催のもと大勢参列いたしました。
現今の繁栄と発展の礎を築かれた先人への感謝の念を忘れずに、後の世に伝えることが私たちの使命です。
招魂社には、当時の報国会などによる慰霊塔や忠魂碑、殉国碑、殉難碑、凱旋記念碑などが数多く建てられています。
伊勢原市内において、明日・明後日は「伊勢原観光道灌まつり」が開催され、市内外から多くの人たちが訪れます。
伊勢原は太田道灌公の終焉の地(糟屋で謀殺)であり、江戸城築城など文武両道に活躍した道灌公の遺徳を偲んで行われています。
道灌公を物語る「山吹の里」という伝説があります。
父を訪ねる途次、越生(おごせ:現在の埼玉県入間郡)で雨に遭い、農家で蓑(みの)を所望したところ、娘が一輪の山吹の花を差し出したという。
七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき 『後拾遺和歌集』
後に家臣にそのことを告げると、娘は上記の歌で〝蓑と実の〟を掛けて、貧しくてお貸しできないのを奥ゆかしく断ったのだと知り、恥じて歌道に精進したといいます。
市内には墓所として、首塚とされる大慈寺(だいじじ:下糟屋)、胴塚とされる洞昌院(とうしょういん:上粕屋)がありますが、あまり知られていないのが、五霊神社(ごりょうじんじゃ:伊勢原市上粕屋〆引)に御霊がおまつりされていることです。
社伝によれば、江戸中期(宝永年間)に三ノ宮の御領原(ごりょうはら)から現在の地へ遷されたとされます。
当地は国府跡地といわれ、平安の世には疫神や怨霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)が行われたと考えられます。
明日は五霊神社において、御祭神である太田資長命(おおたすけながのみこと:太田道灌公)を称えて、例祭(大祭)が執り行われます。
社名の扁額(へんがく)には、「従四位子爵太田資業敬謹書」と記されています。
太田資業は、江戸末期の大名で藩主(遠江国掛川藩・上総国松尾藩)、版籍奉還(はんせきほうかん)で藩知事となった資美(すけよし)の子です。
本日の午前中、比々多小学校5年生の稲刈り体験が行われました。
6月の田植え体験に続くもので、御神田(神奈川県神道青年会)の一部をお借りしました。
当社の責任役員さんが耕作者として管理してきたものですが、子供たちは先生からその説明をしっかりと聞いていました。
子供たちが稲を刈り、運んだものをお手伝いの保護者が縛りました。
「またがない!」「揃えて~」「丁寧に~」・・・などの声を上げながら順調に進み、予定時間で無事に終了しました。
途中、ポツポツと雨が落ちましたが、すぐに青空が広がり、怪我もなく済んで良かったです。
天日干しの美味しい恵みを給食で食べられるのはいつ頃でしょうか。お楽しみに。
来夏予定されている第62回神宮式年遷宮の「御白石持行事」(おしらいしもちぎょうじ)の参加者状況が届きました。
宮司は全国女子神職協議会、禰宜は神奈川県神道青年会の企画で参加する予定になっています。
比々多神社はもとより、所管神社の神社役員・総代さんには、心からの多くの募材を集めていただきました。ご協力をいただいた篤志の皆さまに感謝申し上げます。
今後、所管神社はもちろんのこと、相模中連合支部や中・平塚・伊勢原連合神社総代会と連携を図りながら、伊勢への参宮団を募り、是非とも多くの方々とともにお参りしたいと思っています。
なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる 西行
画像:遷宮広報本部提供