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荷田春満と五霊社

2016年10月2日 日曜日

昨日は市内で開催されている第49回伊勢原観光道灌まつりにあたり、墓所である大慈寺(伊勢原市下糟屋)と洞昌院(伊勢原市上粕屋)において、文武両道に秀でた太田道灌公の遺徳(いとく)を偲び、墓前祭(ぼぜんさい)が執り行われました。

今日は兼務する八剱神社(平塚市上吉沢)と五霊神社(伊勢原市上粕屋)で例祭のご奉仕がありました。

五霊神社 例祭

五霊神社 例祭

社伝によると、五霊(ごりょう)神社は大同(だいどう)元年(806年)の創建で、旧社地は三ノ宮地内の御領原(ごりょうはら)に鎮座していました。

平安時代には三ノ宮の地に国府が置かれていたと考えられ、国司による御霊会(ごりょうえ=死者の怨霊(おんりょう)を鎮めるためのまつり)が行われていたものと考えられます。

この五霊神社には、太田資長命(おおたすけながのみこと=太田道灌公)が合祀(ごうし)されています。

宝永7年(1710年)に現在の七五三引(しめひき)の地に遷座(せんざ)しましたが、その祭典において祝詞(のりと)を奏上したのが、賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)とともに「国学の四大人」といわれる荷田春満(かだのあずままろ)です。

五霊社解除祝詞 荷田春満

五霊社解除祝詞 荷田春満

社殿を新たに造営するにあたり、「邪心(よこしまごころ)なく、穢(けが)れなく、咎(とが)もなく、祟(たた)りもなく、御恵(みめぐみ)と御徳(みいつ)により」と、無事を祈る斎主(さいしゅ)としての心情が祝詞に表れています。

昔から〝見るなの禁〟〝目がつぶれる〟といわれるのが神さまの鎮まる本殿(ほんでん)であり、清浄(せいじょう)を期(き)した宮司であっても、大祭の祭儀のみでしかその扉(とびら)を開くことはできないものです。

この宝永の造営時の墨書(ぼくしょ)には〝神主と雖(いえど)も開けるべからず、一国一郷(いっこくいちごう)の災難起こるべし〟とあり、後生(こうせい)に託(たく)す秘(ひ)すべき戒(いまし)めの言となっています。

今日の例祭に併せて、「戦没者慰霊祭」を毎年行っていますが、招魂(しょうこん)する英霊(えいれい)は五柱であり、「五霊神社」「御領原」「御霊会」の語と相俟(あいま)って、その関係の不思議さに恐れ畏(かしこ)むばかりです。