相模国三ノ宮・比々多神社

御礼の手紙

2週間前にフィールドワーク学習でやってきた自修館中等教育学校の先生と生徒たちから、沢山の御礼の手紙が届きました。

ゆっくりとかみしめるように目を通しましたが、それぞれの思いが詰まっていて、心温かく感じました。

御礼の手紙

御礼の手紙

丁度、暑中見舞いを書く時候ですが、メールやパソコンに頼る時代だからこそ、手紙の大切さをあらためて考えたいと思いました。

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神社新報』第3127号(7月23日)に、神崎宣武氏の「アナログの必要」というオピニオンが掲載されていましたので、ご紹介いたします。

*尚、神社新報は、美しい日本語の文化、言葉にこもる伝統を守るため、歴史的仮名遣ひを用ひてゐます。

あれっ、対談原稿の校正紙が来てゐないではないか、と気づいた。季刊誌だが、定期刊行物である。すでに、刊行日が迫ってゐた。
編輯会社に問ひ合はせた。担当者がしどろもどろしながら、すぐに組んで出しますから、と。えっ、まだ組んでない? 何やってんだ。私は、発行者側の立場にもあるのだ。
次の日に送られてきた校正紙を待ちうけて、一時間ほどで目を通してすぐに返した。対談の相手にも、御無理をお願ひした。
聞けば、もう一本の連載も同じ状況にあったとのこと。これは、入稿が遅れたせゐでもあるが、膝づめをしてでも書きあげさせなかった編輯者の責任が多分にある。
結局、刊行予定から二日遅れの発行となり、多くの読者に御心配と御迷惑をかけることになった。
編輯会社の代表から電子メールが届いた。お詫び、とはいふものの、言ひ訳がましく、木で鼻をくくるがごとし。謝罪の誠意は、伝はってこない。私は、少なからずショックを受けた。その代表者とは長年のつきあひがあるのだ。友人、といってもよい。
その友人がさうなったのは、いくつかの原因がある。が、端的にいへば、電子メール依存の弊害が生じてゐる、と、私は思った。
足を運んできて、素直に頭を下げてくれたら、私もここまで怒るまい。いや、手紙を書いて速達で送ってくれてもよい。電子メールでは、いかに美文を綴られても、「情」が通じることは期待できないのだ。
かくいふ私は、電子メールをつかへない。スタッフ頼りである。したがって、電子メール云々を語る資格はない。しかし、たしかにさう思ふのである。
かつてがよかった、といふのでもない。が、以前は、人びとの往き来や会話があたりまへにおこなはれてゐた。とくに、ものを頼むときは、できるだけ早く、できるだけ丁寧に対面をはかったものだ。謝罪をするときも、同様であった。親しき仲にも礼儀あり、といふがごとくに、姿勢を正し言葉を改めもしたものである。
さうすることで、人と人は、情をからめながら信頼関係を強めてきたのではないか。現在も、さうであらう。それを大事とする人たちは、まだ多い。だが一方で、それを煩はしがる人も増えてゐる。
電子メール通信を否定するのではない。その利便性は、評価しなくてはならない。が、それで万能ではないのである。
デジタル化への加速は、放っておいてもできよう。現代は、むしろアナログ対応の教育を必要としてゐるのである。例へば、学校教育のなかでパソコンやパワーポイントをいっさい使はない日を設けられないものか。
メール音痴の私だけの憂ひだらうか。
ちなみに、本紙編輯の氏、手書きの文を添へて校正紙をファクスで送ってくださる。ありがたきこと哉、とあらためて思ふのである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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